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再興のあゆみ

【原点】

赤穂雲火焼の祖・大嶋黄谷は文政4年(1821年)に、兵庫県赤穂市の加里屋にて生を受け、明治37年(1904年)に亡くなりました。
大嶋黄谷は28歳の時、赤穂を訪れた江戸の陶工・作根弁次郎と出会い、「今戸焼」の陶法を伝授されたものと思われます。

ここで「今戸焼」を少し紐解くと、その創始ははっきりとしてはいませんが、江戸時代、現在の浅草付近で土器や瓦をつくっていた事から始まったと思われます。
初代・白井半七が貞享年間(1684~1688)に初めて土風炉を作り、2代・半七が享保年間(1716~1736)に土器に釉を施した楽焼を作り出して以後、開業者が増え発展し「今戸焼」と称されました。
作根弁次郎は嘉永年間(1848~1854)に「今戸焼」の名工として活躍していたということが文献にも記載されています。

今まで私は、作根弁次郎から大嶋黄谷が伝授されたのは、「雲火焼」の基礎となった「亀甲焼」の陶法のみであろうと思っていました。

ところが先日、私の先祖の残した道具の中に、作根弁次郎という印のある飴釉の水指を見つけました。

大嶋黄谷が「雲火焼」を創出した後に始めたと思われる、釉薬を施した各地のやきものの写しも、おそらく弁次郎から伝授されていたものと考えられます。

それにしても2年という短期間に伝授された知識でもって、その後、独学で「雲火焼」という独特の焼き物を創出した黄谷の才能と感性には驚嘆し、尊敬と敬意の念を強く致しました。

大嶋黄谷は、弁次郎に出会った5年後に雲火焼を創出していますが、まだまだ納得するような焼は出来なかったものと想像されます。
黄谷が理想美とするものがどのようなものであったかは図り知る事も出来ませんが、57歳の時、内国勧業博覧会に出品したあたりからようやく納得のいくような作品が焼けるようになってきたのではないでしょうか。
それまでの20数年間にかなりの試行錯誤があったものと思われ、また、ほとんどの作り手がそうであるように黄谷も亡くなるまで理想美を追い求めるが故にその陶法を伝える事が出来なかったものと思われます。

先年、私は茶道藪内流家元の初釜に行かせて頂いた折に、白井半七の「遠山」という銘の灰器を拝見した事があり、深く心と目に焼きついていて今も忘れる事の出来ない一品であるのですが、それも、「雲火焼」と深い関係のあった白井半七の作品であったことに感慨を深くしています。(注:7代目白井半七は関東大震災後兵庫県伊丹に窯を移したので今戸焼と呼ばれるのは6代目まで)

また先日、黄谷関連の資料を見せていただいた時、第2回内国勧業博覧会の出品目録の中に、「雲火焼」と共に蓼の塩漬2壷、煉筆5色100本入り1箱、白色100本入り1箱を出品していた事をみつけました。
何か黄谷の人となりを垣間見たような思いでございました。

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【やきもの】

「やきものはどのようにして始まったのだろうか。」また「人間がやきものという意識で作り出したものはどのようなものであったのだろうか。」そんなことを私はよく考えます。

あそらく人間は自然発生した山火事や噴火などによって火の力を知ったのです。
食べ物を焼いたり身体を温めたりする為に、その火を消してしまわない方法を考えて、火の周りを土で囲い木切れなどを入れてどんどん火を燃やしているうちに、周りの土が固まってやきものになる事を知っていったのではないでしょうか。

それが正しいとすると、人類が最初に作り出したやきものは”土風炉”すなわち火をおこし保存する土器であったと思われます。
その後人間はそのやきものをより堅牢なものにする為に焼成温度を上げることを考え、また火だけではなく水も入れられるように釉薬を考え出して、徐々に陶器が作り出されてきたのです。

大嶋黄谷の「雲火焼」は、最もやきものの原点に近いものではありますが、土器が持つ”もろい”という短所を補うため、きめの細かい土を作り、低温焼成でも焼きしまった陶胎に近づけようとし、また焼成前に椿の葉で丹念に磨く事によって釉薬を用いたような艶を出し、美しいつるつるとした陶膚を作り出しているのです。

さらに、黄谷はその器面に黒や朱の混じった夕焼け空を連想させる文様を窯変によって出す方法を考案したのです。
私共はその黄谷独特の文様の美しさ、不思議さに心を奪われ、いつの間にか長い長い復元への道に踏み込んでしまいました。

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【土】

大嶋黄谷に関する資料の中に、第1回と第3回の内国勧業博覧会に提出した記録があります。

それによると第1回内国勧業博覧会には「素質:同県下同国同郡池之内村字赤坂山之土手ヲ掘出水漉シテ砂ヲ除キ調整致ス」とあり、第3回には「素質:同県同国同郡同町字ゴフラノ山ノ土ヲ掘出シ」とあります。

私は現存する大嶋黄谷の作品からみると、胎土は2種類あるのではないかと思っておりましたので、上記の資料を見て何となく納得するものがございました。

私共が現在使用しております土は、赤穂市高野下高野の土を5、6メートルほど掘削し、そこから掘り出された粘土を充分乾燥させた後300メッシュ粒子の細かい土に水簸して雲火焼の粘土として使っております。

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【焼成】

「雲火焼」は土もさることながらやはり一番創意工夫がなされたのは焼成方法だと思います。

黄谷の資料では「製造用品:米糠 米藁 砂」「製造法:三種ヲ相用サヤに入レ窯ニ入レ松木ニテ焼」とあります。
まずどのような文様がつくと美しいかを思い浮かべ、窯の中の火の廻りを考えて、サヤの中に作品を斜めになるようにして置き、周りに米糠、米藁、砂を詰め焼成したこと思われます。しかし単にそれだけでは出ない文様がつけられているのはその他にもさまざまな創意工夫がなされたものを思われるのです。

私共も復元の過程で一番難しかったのは焼成方法でした。
最初の2、3年は殆ど失敗ばかりでしたが、そのうち何となく黒に見える、何となく赤に見えると思うような色が表れるようになってきました。

それでもゴム紐でくくられた巻物を解くようなもので、行きつ戻りつの繰り返しでした。

しかし不思議なもので、諦めかけた頃に神様はちょっとご褒美を下さいます。
ある時、まるで御崎(赤穂市・赤穂瀬戸内窯の所在地・日本の夕陽百選のひとつ)の景色を映し出したような水指が窯から出てきました。

窯の中の宇宙の神秘に感動し、それ以来雲火焼を復元したいという思いがいっそう強くなってきたのです。

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【未来】

10年近く経った頃には年1回の展示会も開けるようになり、平成6年には「兵庫県伝統工芸品」の指定を受ける事が出来ました。
これからは雲火焼の可能性を追求し、平成の時代にあった雲火焼を目指したいと思っております。

(没後100年記念大嶋黄谷展「大嶋黄谷展に寄せて(桃井香子)」より)

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