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大嶋黄谷作品

大嶋黄谷作品

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大嶋黄谷作品

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祖・大嶋黄谷

大嶋黄谷の魅力

まず第一にその多面的活動に特徴があります。
源氏流活花師範として若くから弟子をとり、晩年、門人一同によって建てられた石碑をみるにつけても、その足跡の確かさが想像できます。
鋳物師としてもその腕が発揮されていたようで、兄秀輔とともに、鋳造したもののうちいくらかは、御所へ献上したことも含め記録されています。

そして、雲火焼を創出した陶工としての面があります。
陶工としては、雲火焼のみならず、「樂・瀬戸・織部・萩・三島・伊賀・備前などの古陶磁の写しに妙技を発揮」したとされています。

さらに内国勧業博覧会に際して、蓼の塩漬なども出品していたり、文房具、銅印も制作していました。

陶工・大嶋黄谷

大嶋黄谷が28~9歳の時、今戸焼の陶工・作根弁次郎が赤穂に逗留。
この嘉永元年(1848)~2年の頃に、黄谷は弁次郎から陶技を習得しました。

弁次郎に陶技を学んだ大嶋黄谷は、数年後の嘉永5年(1852)に雲火焼の焼成に成功。雲火焼の特徴は、白地に橙色、黒色の夕焼け空にも似た美しい窯変が現れていることです。

第1回内国勧業博覧会に出品し、発明の功績により花紋褒賞を受賞。
弟子はいましたが、雲火焼の技法は受け継ぎませんでした。

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第1回内国勧業博覧会花紋褒賞状

第1回内国勧業博覧会花紋褒賞状第1回内国勧業博覧会は明治10年(1877)東京上野公園で開催されました。
同展には様々な分野の物品が出品され、総勢5096人が受賞し、大嶋黄谷が受賞した花紋褒賞は、龍紋褒賞、鳳紋褒賞に次ぐ賞でした。
参考:東京国立博物館 内国勧業博覧会

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大嶋黄谷 赤穂焼窯跡

大嶋黄谷 赤穂焼窯跡赤穂市加里屋に窯跡があります。
碑の説明に「大嶋黄谷は名を九郎次といい、鋳物・生花等に秀で、幕末赤穂を代表する文化人であった。特に陶芸では黄谷と号して研究を重ね、雲火焼とも呼ばれる陶器を創り出した。」とあります。

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大嶋黄谷年表

文政4年(1821)
1歳
10月14日、赤穂に生まれる。幼名を音治朗、のち九郎次と称す。
天保8年(1837)
17歳
1月、千葉龍子より源氏流免状「書院向表巻」を授かる。
天保11年(1840)
20歳
この頃より活花の弟子をとる。
弘化3年(1846)
26歳
兄秀輔を助けて塩屋、真光寺の半鐘を鋳造する。
嘉永元~2年(1848~9)
28歳
今戸焼の陶工、作根弁治朗、赤穂に滞在し、陶技を学ぶ。
嘉永5年(1852)
32歳
5月 雲火焼を創出する。
万延元年(1860)
40歳
兄秀輔を補佐して鋳造した神馬像を、倉敷市児島の由加神社に奉納する。
慶応元年(1865)
45歳
尾崎八幡宮の奉納鏡を鋳造する。
明治10年(1877)
57歳
第1回内国勧業博覧会に雲火焼を出品し、花紋褒賞を受賞する。
明治14年(1881)
61歳
第2回内国勧業博覧会に雲火焼、紫雲焼、棟筆、蓼の塩漬を出品する。
明治23年(1890)
70歳
第3回内国勧業博覧会に雲火焼を出品する。
明治32年(1899)
79歳
活花門人一同、邸内に黄谷(宗丹)の石碑を建てる。
明治37年(1904)
84歳
4月20日没する。

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参考:没後100年記念企画展「大嶋黄谷」

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